Copy Right  九段小学校同総会  (since 1903)
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●校舎の歴史

上六小校舎 東郷小校舎 九段小1校舎 九段小2校舎

●学友

上六小大3 東郷小昭15 東郷小昭18 九段小昭24

●校章・校歌の歴史

校章の歴史 校歌の歴史 東郷小校歌楽譜

●校務関係書等

参考資料 学校文書 学校印鑑

●東郷平八郎と九段小と旗艦三笠

東郷と九段小 旗艦三笠と飾り棚

●東郷家からの寄贈等

剥製_鶴B 剥製_大鷹 剥製_ムササビA 剥製_ムササビB 剥製_鳥A 剥製_鳥B 剥製_海ガメ 剥製_ナマケモノ 剥製_アルマジロ 剥製_角A 剥製_角B

九段小学校所蔵の文化財等を、
『千代田区文化財研究紀要第5号(平成28年度)』(千代田区教育委員会千代田区立日比谷図書文化館文化財事務室)
から引用(抜粋)し、紹介しました 。
ここには東郷平八郎元帥との関わりや寄贈品も含まれています。
是非、ご覧ください。

●研究報告  --九段小学校所蔵資料について--    『千代田区文化財研究紀要第5号(平成28年度)』より

はじめに

   九段小学校所蔵資料は大きく分けて小学校の活動(校務および教育、児童の活動)の中で作成・使用された資料と、校地に隣接して邸宅のあった海軍軍人である東郷平八郎から寄贈された資料の2つに分類される。資料群は文書だけでなく写真や絵画、教材を含む物品類など多岐にわたり、年代も明治から平成までと時期が幅広い。九段小学校が歩んできた歴史の一端を伝えるだけでなく、千代田区内の小学校教育を考える上でも貴重な資料である。

1.九段小学校の沿革

明治30年鳥瞰図

   明治30年代前半、麹町地域にはすでに番町・麹町・富士見の3校が存在したが、児童数が増加したため、明治34年(1901)に新たな小学校の建設が決定した。校地は上六番町35番地に設定された。この付近には、海軍軍人である東郷平八郎の邸宅や、博文館(明治期に創業した出版社)の社長宅などがあり、閑静な地域であった。

   明治36年(1903)に東京市から設立認可を受け、校舎が竣工し開校式が行われた。新たな小学校は東京市上六尋常小学校と名付けられ、開校翌年の明治37年には東京市上六尋常高等小学校と改称した。明治41年(1908)~大正2年(1913)にかけ、高等小学校新設や付近の小学校改築のため上六尋常高等小学校の校舎が仮校舎として使われ、一時的に休校となった。その間、児童は他の小学校に分散通学した。

上六小校舎 東郷小校舎

   大正12年(1923)9月1日、関東大震災によって明治以来の木造校舎が全焼した。翌月より富士見小学校において二部授業を再開し、翌年からは仮校舎での授業が行われた。この間、新校舎の建設が進められ、大正15年(1926)8月30日に鉄筋コンクリート製の新校舎が落成した。このように震災後に東京市の主導によって東京市内に建設された鉄筋コンクリート製小学校を通称して「復興小学校」という。九段小学校の校舎は、平成29年段階で現存する最古の復興小学校校舎である(平成27年~30年に校舎改修工事を実施)。

東郷小校章 九段1小校章

   その後、昭和9年(1934)になると校名を東郷尋常小学校と改称し、旭日を背景にして2つの錨が交差する意匠の校章が定められた。名称はその名のとおり、東郷平八郎に由来するもので、旭日は海軍の軍艦などに掲げられる旭日旗、錨は海軍をイメージしたものである(東郷平八郎との関係については後述)。「東郷」の文字は、東郷平八郎の直筆による。

   昭和16年(1941)、国民学校令によって校名が東郷国民学校と改称されるが、戦争の激化にともない昭和19年(1944)8月には学童集団疎開が行われた。昭和20年(1945)5月、山の手地域を主な目標とした東京空襲によって麹町区役所が焼失したため、校舎が一時的に仮庁舎として用いられた。敗戦後の昭和21年(1946)、校名は東京都九段国民学校となり、翌年には東京都千代田区立九段小学校となった。

     *本報告では、歴史的内容の記述に際してはその当時の校名で表記したが、それ以外は煩雑さを避けるため
        時代を問わず「九段小学校」と表記した。

2.資料の概要

A.小学校資料

   九段小学校の歴史を伝える資料である。資料の種別と内容は、以下のように分類することができる。

種別 資料内容
「校務関係資料」 学校運営・教務・生徒指導等に関する書類など
「教材類」 教科書、副読本、補助教材、レコードなど
「行事関連資料・アルバム」 遠足・運動会等の案内、記録写真、アルバムなど
「児童作品」 作文・図画など
「校具・備品類」 校旗や幟(のぼり)、公印、校章など
「広報・記念行事資料・同総会」 学校の広報紙、記念行事で作成した物品、同総会作成の冊子など
「書籍」 一般図書
「その他」 写真パネル、他校の記念誌など

重要文書 忠勇顕彰 御眞影注意書

  「校務関係資料」の作成時期は大正末から昭和20年代である。学校の行事や職員会議等の記録を一括して綴った簿冊や、教員・職員の俸給に関する書類、予算関係書類、授業参観の際の芳名録に加え、御真影奉安所に関する書類や、GHQからの指令写など各種書類を綴った戦争直後の簿冊などを含んでいる。校務関係資料に含まれる公文書類は、資料群全体からいえば多いとはいえず、時期も限定されているが、学校運営がどのようになされていたのかを具体的にに記録した資料である。特に、GHQからの指令文書は、九段小学校の歴史という枠を超えて、敗戦後の東京における小学校教育の歩みを知る上でも重要なものといえる。

レコード レコード

  「教材類」は、大正から昭和(戦前・戦後)にかけての教科書、副読本のほか、唱歌や体育、読本の授業で使用したと考えられるレコードが多数含まれている。上六小学校時代の保護者会が発行した家庭科の副読本などは、同校独自の教育内容を今に伝える貴重な記録である。レコードの多くはSP盤であるが、「新憲法公布記念国民歌」や「東京都歌」といった戦後に作成されたものが含まれている。また、体力測定用の器具、教育資料として用いられたと考えられる落下傘、教員が用いる授業用参考書などもこれに該当する。

  「行事関連資料・アルバム」は、大正から昭和(戦前・戦後)の学校行事の記録や写真、卒業アルバムなどである。アルバムには新校舎建設中の仮校舎や竣工間もない新校舎(復旧小学校)の姿も写されており、学校史にとどまらず建築史的な価値も有している。

   「児童作品」は、戦前から戦後にかけて児童が授業中に執筆・制作した感想文や図画作品である。これらの資料からは、当時の授業の内容の一部(作文や図画の題材など)を知ることができる。ただし、児童作品のうち東郷平八郎に関するもの(病気見舞文や東郷についての作文等)は、「東郷平八郎関係資料」に分類する。

土井晩翠書 東郷平八郎書

  「校具・備品類」は、歴代の校旗や幟のほか、上六尋常小学校時代の公印、英文学者で詩人の土井晩翠が昭和9年(1934)に作詞した東郷小学校校歌の扁額(へんがく)(文字は晩翠の自筆と推定)、東郷が揮毫(きごう)した巨大な扁額など小学校が所有していた備品類である。

  「広報・記念行事資料・同総会」は、主に保護者向けに小学校が発行した広報紙、周年事業で配布されたパンフレット、記念誌・記念物品類のほか、同総会が発行した冊子などである。九段小学校の関係者(在校生、卒業生)が、自校に愛着を持って長い期間にわたり学校との関係を築いてきたことが伝わる資料である。

  「書籍」は、小学校の授業で使われていた、教科書・副読本以外の書籍、写真集のほか、小学校が参考資料として購入したと思われる書籍や雑誌などである。

  「その他」は、校内に展示されていたと思われる小学校の歴史的写真のパネルおよび、区内の他の小学校が発行した記念誌等である。

   これらの資料は、学校の運営や児童の活動の実態を記録し、九段小学校でどのような教育が行われてきたのかを伝える資料である。また、文書資料だけでなく、児童が授業で制作した作品類やアルバムをはじめとする豊富な写真が含まれているのもこの資料群の大きな特徴である。

B.東郷平八郎関係資料

東郷平八郎

   東郷平八郎(1847-1934)は、薩摩(鹿児島県)出身の海軍軍人である。薩摩藩士の家に生まれ、薩英戦争に参加し明治維新後には戊辰戦争に参加した。明治4年(1871)からイギリスに留学し、帰国後は軍艦の艦長や呉鎮守府参謀長などを務めた。明治37年(1904)に開戦した日露戦争では連合艦隊司令長官に就任、後に元帥府に列せられ、海軍軍司令部長、東宮御学問所総裁等を歴任した。

東郷邸 東郷邸

   東郷は、明治14年(1881)に東京市麹町区上六番町37番地(現在の千代田区三番町18:東郷元帥記念公園)に地所付の家を購入し、昭和9年(1934)に死去するまで約53年にわたり居住した。東郷は、周辺の地所を購入し数度に亘り拡張を行ったが、関東大震災後の区画整理事業の中で上六小公園敷地として宅地を提供している。

   明治36年(1903)、上六尋常小学校が上六番町35番地に開校すると、小学校児童と東郷との関わりが始まった。例えば、明治38年(1905)に行われた日露戦争凱旋歓迎会の際には、東京市内の小学校中、上六小学校児童だけが新橋駅前で東郷を出迎えている。

   さらに、昭和2年(1927)からは、上六小学校児童全員が5月27日(日露戦争において日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に勝利した日で、戦前期を通じて海軍記念日として祝日になっていた)に東郷邸を訪問し、訓話を聞くという行事も行われていた。昭和6年(1931)からは麹町区内の他の小学校からも総代2名ずつが選抜され、行事に参加するようになった。

見舞作文 国葬感想文 嗚呼東郷元帥 嗚呼東郷元帥

   昭和9年(1934)に東郷が持病を悪化させ、重篤に陥った際、上六小学校児童は屋上での運動や唱歌を自粛、見舞文を綴ったり、総代による見舞いを行ったりした。児童による「東郷元帥への御見舞い文」と題された綴り方(作文集)は、小学校から東郷家へ贈られたものが、東郷の死去後に小学校へ記念のため寄贈されたものと考えられる。表紙には海戦における砲弾の水煙が描かれている。

   同年5月30日に東郷が死去すると上六小学校では、授業の一環として追悼文の綴り方「東郷元帥国葬感想文」を作成した。この綴り方の表紙には、東郷の霊柩と葬列がデザイン化されたイラストが描かれ、内部には東郷の死を哀悼する各学年の児童の作文が綴じ込められている。

   なお、警視庁は、東京市内の全小学校中、上六小学校の児童のみ、国葬に参加することを許可した。

剥製_鶴A 剥製_犬鷲

   このように、東郷邸と隣接していた上六小学校は、東郷と直接・間接に触れる機会が多く、東郷の側でも額や教材を学校に寄贈するなど、特別の計らいを見せていた。日露戦争の凱旋歓迎会の折、区内小学校に東郷は書を贈ったが、大正15年(1926)には上六小学校のみに2幅の額を追加で贈っている。また昭和6年(1931)にも鶴と鷲の剥製を教材として寄贈した記録が残っている。

   こうして寄贈された東郷関係資料の中に、興味深いものが含まれている。明治38年(1905)に滋賀県の小学校から東郷宛に贈られた児童の絵画および書道の作品綴りである。「祝勝記念帖」と題されたこの資料は7分冊にわたり、日露戦争における日本海海戦と戦争の勝利を祝う各種の絵画・言葉が綴られたものである。東郷の肖像画や連合艦隊の戦闘場面などが描かれているが、それらの絵の多くは、児童のオリジナルというよりも、当時流布していた石版画や雑誌の挿絵などを参考に描かれたものであり、似通った構図の作品も多い。これらは、日露戦争や東郷に対する当時の一般の人々のイメージを現在に伝える興味深い資料であるといえる。本資料は九段小学校の歴史や教育との直接的な関係はなく、東郷の死後に一連の資料と共に小学校へ寄贈されたものと推定される。

   以上のような経緯から、東郷死去の後、昭和9年(1934)7月4日の麹町区会は上六小学校・幼稚園を東郷小学校・幼稚園と改称する意見書を東京市に提出、同31日に認可された。それに伴い、東郷家は遺品41種92点を東郷小学校へ寄贈した。区と小学校は、寄贈を受けた資料の保存と利用を促進するため同年11月、校内に「東郷室」を設置した。

   この際の改称を記念する綴り方「校名改称の感想文」には、校名改称に興奮して朝早く目が覚めるなど、自らの学校名に「東郷」の名が付くことを喜ぶ児童の感想が多数収められている。この作文集の表紙には、新たに制定された錨をモチーフにした校章があしらわれている。

東郷木像 東郷木像

   昭和10年(1935)に編纂(へんさん)された『麹町区史』は、東郷と麹町区の関わりを追補の形で巻末に掲載しているが、その中に東郷家からの寄贈品内訳が収録されている。

   一覧表と実際の九段小学校資料とを対照すると、肖像画や模型などの物品類は確認できず、当時寄贈された資料の全てが九段小学校に残存しているわけではないことが分かる。

   ただし、東郷家から寄贈された記録が残る資料以外にも、東郷宛の書簡や「東郷元帥御寄贈」と刻まれた木製のプレートの一部、東郷の木製胸像など、異なる時期に寄贈を受けたと推定される資料が確認できる。

   なお、整理の段階で、東郷平八郎本人または東郷家から寄贈された資料に加え、東郷の死去を報じる新聞を綴った大判のスクラップブックや、上六小学校児童による見舞文・追悼文など、東郷に関係する資料を一括して「東郷平八郎関係資料」と名付け、「小学校資料」に含まれる児童作文等とは別扱いとしてある。

   *** 終わり ***