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●「上野原に集団疎開して」

       - 昭和20年卒(第37期生)瀬野悍二(せのたけし)様からの寄稿 <20190921> -

1.『6年生として上野原町に集団疎開(6年生時担任は浜野貢先生)』
    昭和19年8月26日の早朝、校庭に集まった6年生(第37期生)の私と3才下の妹を含む3~6年生の総勢89名は1列に並び、ラウドスピーカーが奏でる軍艦マーチに歩調を合わせ、親達に見送られて学校を後にした(小泉校長他3教員が引率)。集団疎開の行く先は山梨県の上野原町と聞かされていた。
    上野原に到着すると3軒の宿屋(若松屋、上野原館、喜久住)に分宿することになった。我が校では男女生徒は入学時から別クラスだったので、ここで初めて顔を合わせることになった。各学寮には濱野先生、早川先生、小林先生、それに3名の保母さんと3名の作業員の方たちが一人ずつ生活を共にして下さることになった。後日知ったのだが、学童数が89名と少なかったのは生徒の半数は縁故をたよって個別に疎開したからだった。6年生(男36,女24)は地元の生徒達とは別クラスが用意されたが、他の学年は地元のクラスに組み入れられた。9月1日の疎開学童受け入れ式に次いで「疎開学童断髪式」が警察署で行われ、長髪の男子は丸坊主になった。行事といえば、皇后陛下よりの菓子の下賜式や猿橋までのマラソンも記憶に残る。また、冬の早朝、警察署内の道場まではだしで走り剣道の寒稽古をやらせてもらった。当時、我が校では剣道は必修科目だった。

上野原小玄関前での集合写真1 上野原小玄関前での集合写真2

今年5月に新装なった母校を見学した際に、資料室で撮った写真左は、【上野原小学校百年史:第5章】の表の学年別学童数から判断して、先方に到着後(9/1)に行われた「疎開学童受け入れ式」の時の玄関前での集合写真で、正面前列の4先生方の中央の二人は小泉校長と上野原小学校校長ではないかと想像されます。生徒の人数は少なくとも6年生の人数より多く、しかし実数74名は上野原小学校百年史第5章の表にある89名より少なく、完全に一致しませんが、何らかの事情で式に参加できなかった生徒がいたのでしょう。ちなみに、U君や私らしき顔がみられるので、6年生がいます。九段小学校同窓会ホームページに載っている集合写真(写真右)は、我々学年(昭和20年卒業生)の上野原小玄関前で撮ったもので、昭和18年卒業生という表記は誤りだ。

   【上野原小学校百年史:第5章】の紹介


    今も上野原市に保存されている公的資料によると、婦人会の方々や宿の主人らは、家族ぐるみで学童達にやさしく接して下さったことが具体的に記載されている。9月に催された牛倉神社大祭のおどりにも参加したと、妹は記憶している。当時はストーブもない1階の広間での朝食時、野沢菜の漬け物はジャリジャリ凍ったまま食卓に並んだ。行儀が悪いと知りつつ熱い味噌汁をご飯にぶっかけて食べたときの美味しかったこと!ひもじい毎日だったが、町の婦人会のご好意による「およばれ」は大きな楽しみだった(休日に1〜2名ずつ各家庭に食事によんでもらった)。食べ盛りの年頃だと言うのに、食べ過ぎて胃が翌日までもたれたことは皆が異口同音に回顧する懐かしい想い出だ。
    また、親たちが東京からやってくる面会日も差し入れを期待して首を長くして待ったものだ。当時は、喜久住の2階から上野原駅が見渡せて、リュックを背負った母たちが駅からの雪道を滑りそうになりながら登って来るのを待ちわびた。“二七通り”の“寒梅”のパンなど美味しかったこと! 又、冬の炬燵ではミカンの皮まで焼いて食べた。あのほろ苦い味もなつかしい。将来親になったらこの苦労話を子供達に語り聞かせようぜ、とませたことを言う奴もいた。U君(同級生)は薬屋で整腸剤「わかもと」をなけなしの小遣いで買い、空腹の足しにしたという。
    上野原に移ってからも空襲警報が鳴り響く日が増え始め、その都度、山の防空壕に先生や保母さん達と避難した。保母さんは、大きな缶に入った非常食の乾パンを携行して下さった。ある朝、雪の積もる校庭前の階段を下駄に雪がつまって登れずべそをかいていた妹を地元の大柄な女の子が助けてくれたのを妹は今も憶えている。その子は何かと面倒みよく、家にも招いてくださったとのこと。
    シラミ退治の騒ぎも独特の痒みと共に懐かしい。妹によれば頭にシラミがわき、毎日保母さんが櫛で髪をすいて下さると、ぼろぼろ落ちた。男の子もシャツを脱いだときシラミがみつかり大騒ぎ。保母さんたちは宿舎の欄干にシラミ退治のシャツを干して大忙しだった。
    そうそう、疎開先での国語の時間に書いた作文が南米の日本人移民向けの短波放送の電波にのることになり、担任の先生に付き添われて当時東京日比谷にあったNHKに出向き、マイクの前で作文を朗読した。内容は忘れたが、東郷元帥ゆかりの我々の学校が選ばれたのだろう。記念にシャープペンシルをいただいた。
    ある日、我々の中のガキ大将が地元の子達から「果たし状」を受け、近くの山の空き地で実行の手はずになった。ところが、現場に向かう途中で先生方が駆けつけて中止。女生徒たちは従軍看護婦よろしく甲斐甲斐しくマーキロや包帯の準備に余念がなかったのに。
    運動場から眺める富士山が毎日白くなって行く様を見続けた182日間の上野原滞在だった(U君の言)。2月25日に我々6年生は中学受験のために東京に戻り、私は願書を出していた市立一中(現九段高校)の入試日を待った。しかし、3月10日早暁の大空襲で事態は一夜にしてどんでん返し、入試はおろか卒業式も吹っ飛んだ。幸いにも市立一中は校長名で願書を出していた者が全国どの中学校にも無条件入学できるべく証明書を発行してくれた。そのお蔭で、事情は省くが旅順に渡り、2ヶ月遅れながら旅順中学に途中入学できた。

    戦後になって懐かしの上野原を訪れてみた。小学校および市が公的資料として編纂した「上野原小学校100年史」および「上野原と戦争」を見せていただき、我々の集団疎開についての具体的な記載内容に感動した。

2.『我が東郷小学校の集団疎開の様子が、上野原小学校「百年史」及び郷土誌「上野原と戦争 〜戦時下の記憶〜」に記録されていた(昭和19年二学期から20年2月末まで6年生として山梨県上野原町に集団疎開)』
    2010年11月24日(水)、所用で70余年ぶりに上野原を訪れた。甲州街道を中心にした町並みは当時とそれほど変わっていなかったが、我々が学寮としてお世話になった喜久住も若松屋もすでになかった。御世話になった喜久住の主人の細田夫妻と大月の女学校に通っていた娘さん、それに我々と同じ小学生だった息子さんを想い出した。その息子さんは健在だと近所の店の人から聞いたが、ご挨拶するのは次回の楽しみにして上野原小学校に向かった。生憎、学校は全面的な改築工事中で旧校舎はなく、せめて富士山が望める懐かしの校庭にだけでも入らせてもらおうとうろうろしていたら、通りかかった職員とお会いしたので来訪の目的を伝えた。それなら校長先生に会われてはと言って下さり、望外の結果となった。岡部平和(ひらかず)校長先生は3年前に就任されて以来、上野原小学校及び上野原の町の第二次大戦中の歴史に関心をもたれ、このまま放置しておけば年々消えて行く恐れのある資料と当時の人達の記憶を何とか目に見えるかたちで残せないものかと考えられたと言う。そのお考えは上野原小学校の職員をはじめ、町の皆さんによって実行に移され、岡部校長がその中心となって行われた資料収集と編纂結果は平成21年11月に「上野原と戦争 〜戦時下の記憶〜」と題する本のかたちで出版された。校長室ではその本に加えて「上野原小学校百年史」及び和綴じに毛筆で書き込まれた「上野原尋常高等小学校沿革誌 自明治弐拾七年十二月〜至昭和四拾七年度」を見せていただいた。上野原小学校は創立が明治6年の伝統校で、旧校旗は「三種の神器」があしらわれたものであった。特筆すべきは、3冊の本のいずれを開いても我々東郷国民学校からの集団疎開児童受け入れが当時の麹町区と上野原町との間で周到に準備されたことが記録されていたことである。特に「百年史」の第5章は、集団疎開学童受け入れについてで、時の私達学童のなまなましい生活ぶりが書かれていて感動した。また、終戦の年の2月25日に私ら6年生は中学校進学のために東京に戻ったのだが、残された3〜5年生達がその後どうなったのかは、この第5章を読んで初めて知った。
    岡部校長先生には貴重な時間を割いていただき、大変気さくにお話しをいただき、高揚した気分に満たされて辞去した。また、今回このような貴重な報告ができるのも、上記資料の一部コピーを快く許可してくださった岡部校長先生のご好意によるもので、感謝の念でいっぱいである。

    このことは、本報告の前編に出てくる宇佐美圭二と妹のマリ子に報告したが、あの当時、上野原で生活を共にした卒業生の皆さん、どうぞ各自の想い出をお聞かせて下さい。
    加えて、最近思いもかけぬ吉報が木田昌宏同窓会長から舞い込んだ。山梨県内のさる大学4年生の学生さんが、我々の学童集団疎開を卒業論文のテーマに選び、私達当事者に協力を依頼してきたという。私達当事者としては願ってもないことで、掛け替えのない研究成果を期待している。

●「集団学童疎開時代:猿橋町から賑岡村東光寺へ移動した時の日記から」

      - 昭和21年卒木村利人(日本生命倫理学会第7期代表理事・会長、「幸せなら手をたたこう」作詞者)、九段100周年記念誌より -

戦争が終わって50年以上たつ平成の時代になって、戦後建てた東京の自宅を改築することになり、物置を整理していたら、僕の疎開時代の日記の一部がでてきました。小型のマスメのある日記帳に、鉛筆で今よりよほど丁寧な字でつづられていて、自分の分身に出会ったような懐かしさを感じたのでした。当時の生活がよくあらわれているので、ここに原文のまま、一部書き移してみたいと思います。
***
<昭和二十年八月一日 晴れ 気温二十七度>
    いつもの通り六時に起床の声がかかるとすぐにはね起きた。昨夜とてもかゆくて眠れなかったのでのみをさがしたら居る居る、僕の所から五匹も出て来たのでただちにひねりつぶした。僕のとなりの遠藤君の所にも五匹居たのでこれまたひねりつぶす。大分のみとりにひまを取ったのでふとんをたたむのがおくれてしまった。皆を見たらたいがいの者はたたみきって居たのであはててふとんをたたんだ。すぐしまふ巡番がきたので入れる。先生も昨夜五匹つかまへたのことだ。
    今日は僕等が廊下をふく番なのですぐふいた。終わって顔を洗ふ。朝礼七時、外でやった。宮城よう拝。仏様を拝む。先生に禮。おはようございます。それからみうた奏しやう。体操をする。第二体操だ。終わると先生に禮。わかれ。いつもはこふいふ順でやるが時々變更することもある。七時十五分に朝禮が終わった。すぐに女子食事當番は御飯や御わん等をはこぶ。二十分に食事。おみおつけはおかわりなし。三十五分頃食事が終わった。先生が男女猿橋へ米を取りにいくから支度をして五十分に集合といはれた。その間にはき物の無い人は先生の所からゴムグツ(一名メリケングツ)をかりた。集合の合図は「卜・ツー」イロハのイである。出發したのが五十五分頃。途中大分暑かったが別條無く大黒屋學寮に到着した。ルツクサツクに米を入れてから三十分休憩といったので四人で(山田・井上・河原・木村)すぐ小松屋へ行ったらをばさんがいらっしゃってす桃を御馳走してくれた。咽がかはいてゐたのでとてもうまかった。二階へ行って見たら相変わらず松永が病気で寝てゐた。寮母さんは掃じをしてゐた。時間がそうないので大黒屋へ行った。大黒學寮出發。歩くのが少し早く思われたがかへって樂にいけた。六本松で五分位休憩して又歩く。横山君等ゴムグツがなれなくて靴づれが出来て痛そうだった。七保橋を少し越した所ではだしになってゐた。十二時十五分前頃東光寺に到着。すぐ足を洗ったり頭を冷やしたり。この間は帰って来たらすぐ食事だったのに今日は三十分くらい手間取った。十二時二十分頃食事。カレーライスとてもうまい。御飯は多さうに見えるがおわん一ぱいそれを平らにして多さうに見せかけてある。だから腹がすぐすくわけだ。こんなのはぺろりと食べてしまう‥‥。食事が終わったのが二十分頃。
    三時十五分頃郵便やさんが来た。僕の手紙が来ますようにと祈っていたら来た。きみ子さんからだ。二時半頃先生が風呂に入った。三時頃より女子先に風呂に入る。その間男子先生とまはり将棋をしてゐた。六時十五分頃夕食おかゆにふりかけをかけたもの。食事が終わると當番は先生の所へ行って明日のひきつぎをする。今夜から僕が當番だ。すぐ夜の清掃始め。女子は掃くだけ。僕等は廊下をふく。三十分から自習始めこの時は手紙をかいたり本を見たり繪をかく等思ひ思ひのことをしてゐる。時々アンバンがどうだとかシュークリームが食べたい等の話になることもある。話となるとたいがい食べ物のことだ。七時十五分に自習終わり。二十分から反省會。日記を讀む。一日のことを反省してみる。先生が暑いのによく猿橋まで頑張ったといはれた。終わるとすぐふとんを敷く。それからかやをつる。清水さんがのみ取り粉をまいた。寝る前にのみをさがした。一匹撃沈。八時消燈。あ―ねむい。
<八月二日 晴れ 気温二十八度>
    今日は僕が當番だ。六時前に起きて雨戸を開けた。のみさがしをして顔を洗いに行く。今日もよい天気だ。今日は僕等は外を掃いた。六時十五分から朝禮。食事の用意ができたので体操なし。七時朝食。す桃のしほづけは梅干しのかはり。おみおつけおかわりなし。梅沢君がふりかけをかけてゐた。三十分頃黒板や机等を並べて勉強の出来る支度をした。先生は僕の家から持って来たハンダごてでラジオをなほして居た。八時半より授業。本来ならば夏休みなので授業は一、二時間位しかやらないといふことだ。
    一時間目すこし土用の話をした。算数テコの所をやった。五十八ページ。二時間目吉田先生から手紙が来たので読んだ。地理満州のこと、蕪順の炭田の露天掘り、鞍山の鉄鉱、アジア号の中、満州の道路、鉄道、奉天新京等色々なことを話してくれた。僕が當番なので代表して吉田先生へ返事を書いた。吉田先生は東光寺の寮母さんであったがこんどお嫁さんに行かれたのだ。
    今日はとても暑い。ミンミン蝉、アプラ蝉など鳴いて居ると去年のプールを思い出す。去年の昨日はお父さんと僕、岩本君、妹とプラネタリュウムを見に行ったっけ‥‥。帰ってきてプールに行った。ああ去年のこと思い出すなあ。
    もうあの家も空襲で焼けてしまった。憎い米英。撃ちてし止まむ。
    十二時ころラジオがなほったらしい。報道が入ってきた。がしばらくして又だめになった。どうもやっかいなラジオだ。すこしたってから本を讀んだ。新聞文學集。
    木野先生が植物を調べていらつしやった。え―とこれでもない、これかな等と言ひながら取ってきた植物はみそはぎであることがわかった。その後で畠を見に行った。トマト、キュウリ、ナス、等もう小さいのが出来ていた。清水さんのをじさんがあと十日たてば完全に食べられるといって居た。をじさんが朝夕手入れをしてゐるのでよいのが出来そうだ。五時半頃小俣先生の家へじゃが芋を取りに行ったらじやが芋のふかしたのを二個みそといっしょに付けて食べなさいといって御馳走してくれた。じやが芋はひとり五貫で清水さんのをじさんとをばさんのだそうだ。
    たまたま途中で、浅川、立川、八王子ぜんめつ等のうはさを聞いた。全滅ではないそうだがかなりひどいらしい。夕食おかゆ。梅沢君が小俣先生の家でもらったみそをとっておいたらしく、おかゆの中に入れていた……。これで先生のところに行ってひきっぎをするともう僕の當番は終わりだ。明日からは上田君の當番。六時四十五分ころから自習。僕は先生のところで空襲の様子についてきいた。皆は又食べ物の話だ。七時二十分自習終わり。反省会。消燈八時。
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こうして読んでみると、そう感傷的にもならずに、毎日たんたんと生活しているようで、僕にはちょっと意外でした。すこし、危機感がでているのは八月十三日、終戦の二日前です。
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<八月十三日 晴れ>
    6時起床。すぐ清掃。空襲中なので朝礼は家の中でやる。体操なし。朝食七時二十分ころ。今日はおつゆ。新聞文學集を読む。敵機はひっきりなしに上空を飛んで居る。急にひゅ―んと敵機が反轉したとおもふと大月と思われる方向へ爆弾とう下。岩殿山の後向に黒い煙が一しゅん見えた。
    それからも方々で、ばかん、どすん、ばりばりなどの響音が聞こえた。すぐふとん部屋へ待ひ。僕は爆弾のおちた時の音、機銃掃射の音など初めての経験だ。
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どうしたことか、日記は八月十五日と十六日は何も書いてなくて、十七日からまた始まっています。
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<八月十七日>
    6時起床。すぐ清掃が終わってから漫画をかいた。五十分朝礼いつものとおり。朝食七時半ころ。ごの頃はおみおつけはない。みそがもうないそうだ。きうりのつけたもの。九時ころから下の畠の下抜きをしてたがやした。わりあい暑かったが別に気分の悪くなった人はいない。男子はふたりづつ交代でくわをもってたがやした。十二時ころ終わる。十二時三十分頃昼食。じゃが芋と十六いんげん煮たの。とてもうまい。
    午後「火薬船」「木村重成」「西住隊長」等の本のやぶけている所を修理した。大野先生と島田さん今西さんが村長さんの家へ野菜を取りに行った。
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八月十五日に天皇がポツダム宣言受諾のラジオ放送をして、日本は無条件降伏で戦争に負けたのに、これを読むかぎり、僕たちの疎開生活はその後もなにひとつ変わらずに続いているのが、とても不思議な気がしました。
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<本校の集団学童疎開>(『千代田区教育100年史』より)

(疎開先) (学寮) (学年) (児童数) (引率教職員)
上野原町 若松屋   6年/男女     29人 浜野 貢    
上野原町 喜久屋   6年/男女     30人 早川 信尾  
上野原町 上野原屋 6年/男女     30人 小林 とし子
猿橋町   大黒屋   3~5年/男女 38人 小俣 以一  
猿橋町   坂下屋   3~5年/男女 18人 山室 芳子  
猿橋町   小松屋   3~5年/男女 22人 木野 孝雄  

●「東郷国民学校の学童集団疎開」

      - 昭22年卒岩本和也(***)、九段100周年記念誌より -

    太平洋戦争での日本軍玉砕が各島で起り、日本本土への米軍上陸もうわさされるような時期に国の将来を考え子供を守ろうという政策のもと学童集団疎開が行われました。
    東郷国民学校は山梨県上野原、猿橋に行くことになりました。昭和19年8月五年生と四年生150人程が上野原は上野原旅館、若松屋、喜久屋、猿橋は大黒屋、小松屋、坂下屋にいづれも旅館に滞在することになりました。親から離れての生活を全て自分でしなければなりませんでした。食糧難で食べ盛りなのに御飯と言っても米は少々で大豆が入って軽くお茶碗に一杯しか食べられませんでした。ふとんの中で親が恋しくてしくしく泣く人もいました。現地の小学校に入りました。都会っ子と言われ学校帰りに現地の子供達からいじめられました。
    休日は枝や松ぼっくりを拾いに近所の小川に行き、旅館に持ち込み燃料にしていました。風呂は町の銭湯に2週間に1回程度行きました。不衛生だったのでしらみが湧き、私のいた大黒屋は南京虫が湧き夜中に皆起きて退治をしたことがありました。
    毎日子供達数十人が生活しているので将棋、トランプ、お手玉などして遊んでいました。勉強をするのは邪魔されて難しくほとんどできませんでした。各宿泊所では上下関係がはっきりしてその中で秩序がとられていました。
    疎開生活の苦しみを知った親達は子供を引き取り縁故疎開に行きました。上野原も人が少なくなり10人程が歩いて猿橋に来まして20年4月には新四年生が疎開して来て六年生は猿橋より二里程山奥の賑岡村の東光寺へ行きました。
    昭和20年3月10日に東京大空襲があり、夜に防空頭巾を被り近所の小山に避難しました。東京空が真赤になるのを山の中腹から見ていました。その時は花火の様できれいだなあと思っていました。翌日麹町が全部焼けたと聞き「お母さんが死んじゃった!」と泣き、それにつれて皆がわあわあ泣きました。
    8月15日終戦の日は暑い日で私は山へ薪を拾いに行ってたら重大ニュースがあるから早く帰って来いというので旅館に着いたら一台しかないラジオの前で皆神妙な顔で座っており、玉音放送を聞きました。何を言ってるか分からないけど戦争が負けたようだと思ってました。教育により子供達は日本軍が負けるとは思ってはいませんので信じることができませんでした。その時小俣先生が日本は負けたと言いました。
    昭和20年9月始め頃だと思いますが米軍が戦車を先頭に大月に駐屯するのに国道二十号で猿橋に入って来ました。夕方の薄暗い中をジープの上に鉄砲をのせ、いつでも打つという戦闘状態で通過して行きました。
    10月に東京に帰り市ヶ谷駅を降りて改札を出て外を見た時驚きました。何もなく焼け野原で東郷小学校(現九段小学校)の時計台が見えました。
    東郷小学校の講堂に行き、母親がいるのを見て、その時やっと戦争が終わったんだと思いました。

●「大都会の田舎」

      - 昭25年卒中塚充(***)、九段100周年記念誌より -

    昭和20年の空襲で戦災に遭い、少年は上級生の集団疎開先、山梨県猿橋に家族と疎開した。猿橋小学校は東郷国民小学校の疎開先、猿橋小学校には、飯村先生の他何人かの先生方がいらし、小学2年生として転校。当時東郷元帥の学校との誇りを、子供ながらに持っていた感がする。戦時下の都会の子供と、田舎の子供と体格差は食糧事情が大きく、食べる事での嫌な思い出と、体力差で常に劣っていた事で、思い出したくない。
    九段小学校に復学できたのは4年生の春からだと記憶している。

●「文武両道の教育」

      - 昭21年卒渡辺健太郎(***)、九段100周年記念誌より -

    5年生になると戦況が厳しくなり、5・6年生は猿橋に集団疎開をすることになりましたが、私は一時新潟へ縁故疎開をしましたが、昭和20年5月末に家庭の事情で三番町の官舎に戻って来ました。官舎は軍隊が守って居た為か無事でしたが、周りは一面焼け野原でビックリしました。
    学校は軍隊の宿舎になっており、一教室だけが残留組の勉強部屋で、1~6年生30人位が皆一緒で、宿舎の方から跳んできて身体につく蚤を潰しながらの授業でした。
    プールでは兵隊さんが泳ぐ練習や、幼児用のプールで頭に手拭をのせ風呂がわりにしていました。
    その兵隊さんも終戦のあくる日には一人残らず居なくなり一挙に廃墟になったようでした。
    9月に入り疎開組の友人達が帰って来た時には久しぶりの再開を互いに喜び合いました。

●「70周年あれこれ」

      - 17代校長佐藤利郎(***)、九段100周年記念誌より -

    夏休みには学童疎開先の上野原・猿橋を訪問した。九段の子が学習した学校。あのいたずらっ子がもう学校の父兄ですかと感にたえぬ宿舎の内儀。大豆を子どもが石の上で一粒一粒つぶすので石が光ったというお寺。